雨宮まみさんのこと

私は、本当にショックなことに直面すると却って冷静に振舞ってしまう。

雨宮さんの死を知った時もそうだった。

 

え、うそでしょ?

母と会話しながらパソコンを開いていた私は、何気なくネットニュースを開いた瞬間固まった。母の声が遠くなった。

瞬間的に記事に目を通した私は、動揺を悟られないようそっとページを閉じ、何事もなかったかのように会話を続けた。でも、心臓はバクバクだ。

 

私は、雨宮さんの文章が好きだった。重すぎず軽すぎず、核心を突いてくる文章に惹かれた。

最初に知ったきっかけは、マイナビで連載されていた「ずっと独身でいるつもり?」だったと思う。それが単行本化されるタイミングで、母校の学園祭の対談イベントに雨宮さんが登壇すると知り、初版を買ってイベントに駆け付けた。2013年秋のことだった。イベントの内容は忘れたが、その後サインをもらった時のことはハッキリと覚えている。寒色系のワンピースに身を包んだ雨宮さんは、思ったより小柄で、知的なオーラを発していた。私は思いを伝えようとし、そのオーラにひるんだのと、緊張のせいもありなんだか変なことも口走ってしまった気がする。でも、雨宮さんはウィットに富んだ返しを下さり、お互い笑って、私は浮かれ気分でその場を後にした。

 

それが最初で最後の、雨宮さんの姿になってしまった。

 

あの時、肉声を聞いたからだろうか。芯のある、通った声。以来、雨宮さんの文章を読むとき、その声で脳内再生されるようになっていた。ある時は語りかけるように、ある時は独り言のように、ある時は厳しくツッコミを入れるように。そんな調子だったから、勝手に雨宮さんを本当の知人かのように感じていた。

 

それだけに、衝撃が大きかった。一人になるとむさぼるようにネットで記事を読んだ。事故死?15日の朝発見?混乱しながら、他社のネットニュースやツイッターも手あたり次第読んでは、知っている以上の内容がないとわかると妙に安堵したりなんかした。だんだん、何が目的なのかわからなくなった。でも、手を止められなかった。 

 

最初は悪い冗談だと思った。いわゆる、ガセネタだ。そうだ。たまにあるじゃないか。最近の記者はよく調べもせずに載せるから。まったく。それか、そうだ、これは雨宮さんの壮大で悪趣味な実験で、死んだら周りがどういう反応をするのか試しているんじゃなかろうか。それを次の記事ネタにする気なんじゃないのか。「いや、ほんと驚かしてすみませんでした。一度やってみたかったんです」とか言っちゃって。だって、あんなに自分を客観的に分析できて、文章で表現できて、生への執着が強い人だもの。嘘だ。

 

でもそれはガセネタなんかでも、壮大で悪趣味な実験なんかでも、なかった。

とうとう、いくら何をどう読んでも、それ以上の真実はないのだと悟った。

 

雨宮さんが死んだ。

 

ありえない。 着たいものを着たいだけ着たいって、もっと納得いく仕事をしたいって、タイルのある家に住みたいって、言ってたじゃん。連載も終わってないじゃん。果たしてないこと、いっぱいあるじゃん。いくらなんでも、尻切れトンボすぎる。原因がわからない分、モヤモヤが止まらなかった。14日の夜、どこでどんな思いで過ごしていたのだろう。最後の夜になるという予感はあったのだろうか。あってもなくても、読者に向けて何か一筆したためといてくれれば良かったのに。

 

行き場のない憤りや悲しみを、一人で消化していく作業は、想像以上に孤独だった。それから何日かは、もしかしたらと願いながら連載を開く自分がいた。過去の記事を読み直した。どこかに、真実があるかもしれないとネットを徘徊した。

 

次第に、そんなこともしなくなっていった。

 

受け入れた?とんでもない。私は、単に忘れしまいつつあるだけだ。時間が波のように押し寄せる日々の中では、どうしたって過去のことは過去のこととして埋もれてしまう。肉親でも直接の知人でもない私には、強制力をもって故人を思い出すよう迫るイベントも人のつながりもない。彼女の文章を読むことはなくなり、代わりに面白い記事を書く人が出てきたらそちらをブックマークして、また通勤中の暇つぶしにあてるだろう。ただ、それだけのことだ。

 

だから、せめて、雨宮さんの存在を忘れないように、自分の行動を変えることにした。

雨宮さんがしていたように、私も私の言葉で文章をつづる。

 

書かなきゃ残らないんだってこと。伝えなきゃ届かないんだってこと。

雨宮さんが教えてくれたから。

 

「えー?あたしホントに死んだの?うけるー(笑)」とか言ってる雨宮さんの声が聞こえてきそう。もう二度と聞けないけれど、脳内ボイスはまだまだ活用させてもらおう。精一杯の敬意を込めて。合掌。